産前産後のお母さんやそのご家族へ、出産に関する体験談をお伺いするインタビュー企画。これからお母さんになる方やそのご家族には、不安・悩みも多いと思います。子育ては十人十色ですが、誰かの経験を知ることで選択肢が少しでも増え、悩みの緩和に繋がると思い、先輩たちの実体験をお届けします。

第4回目としてお話を伺ったのは西山 妙子(にしやま たえこ)さん。

看護師、マインヘルスケア代表、オンラインサロン運営とさまざまなことに取り組まれている西山さんは現在3人のお子さまを持つお母さんでもあります。

第1部では孤独を感じた妊娠期や、陣痛の痛みに耐えながら2回も病院から自宅へ帰されたエピソードを伺いました。第2部の産後では、共に悩みを共有しながら子育てをしたママ友達の存在や、難病を抱えながら産まれてきた第3子の誕生話と想いについてお届けいたします。


<プロフィール>
西山 妙子<Taeko Nishiyama>
千葉県出身、東京都在住。横浜赤十字看護専門学校を卒業後、看護師として病院の外科病棟やオペ室にて医療の最前線にて従事。スキー場の救護室にて勤務中に妊娠が分かり退職。出産後は育児と併用しながら病院勤務等で働き、看護師としてのキャリアを続けていく。2013年に病院勤務から訪問看護へ転向し多くの高齢者の日常を支える。2016年、医療製品の販売や看護師支援サービスを提供するマインヘルスケア株式会社の代表取締役に就任。現在は訪問看護ステーションに所属し訪問看護師としても働きながら、オンラインサロン「ナースライフバランス研究所」の企画運営、マインヘルスケア株式会社の運営に尽力されている。
プライベートでは20代に長男を出産、その後長女、次男を出産。




第2部:産後

妊婦の時から共に歩んだ育児仲間の大きな存在

障がいという個性を受け入れて


森山:里帰り出産をされた西山さんですが、退院後はどのように過ごされたのでしょうか。

西山さん(以下敬称略):産後、1週間ほどして病院を退院し、1カ月健診までの期間は実家でお世話になりました。初めての育児は新しいことの連続でとまどいも多く、特に夜中の授乳は慣れるまで大変でしたね。これまでの人生の中で夜中に何度も起こされる機会はなかったので、寝られない状況にストレスを感じました。

1カ月健診も無事に終えたので、自宅の浦安市に戻りました。ただ戻ってきたものの、妊婦期間中と同じで、昼間は主人が仕事で不在になり、私は長男と二人っきりです。主人が出張で帰って来れない時もあり、すごく嫌でした。自分1人で赤ちゃんのお世話をするプレッシャーと、会話ができない赤ちゃんとの時間は不安と孤独でいっぱいでした。誰とも話さない日々、社会と切り離された感覚が怖かったです。



何気ない会話やコミュニケーションがどれだけ人にとって大切か、私も同じような体験をしたのでよく分かります。子育てはどのようにして進んでいったのでしょうか。

西山:生後3カ月を過ぎた頃、母親学級(※1)で出会った人達と再会する機会がありました。出産前に「生まれたら一緒に遊ぼうね」と連絡先を交換していて、出産後みんなで集まりました。

久しぶりの再会は本当に楽しかったです。何気ない会話が嬉しかったな。それからは毎週のように集まり、公園やお互いの家に行ったりと頻繁に集まっていました。

出産をした時期がだいたい同じだから、子どもの成長段階も育児での悩みも同じような内容で気軽に相談し合っていました。その中で、1人だけ2ヵ月くらい早く出産していた仲間がいました。赤ちゃん時期の2ヵ月差は結構大きくて、出来ることがどんどん増えていきます。例えばその子がストローを使って飲み物を飲んでいる姿を見れば「うちの子も、もう少ししたらストローが使えるようになるのかな」と想像できました。先を歩んでくれている友達がいたので、常に希望が目の前にあるようで心強かったですね。

長男が1歳を過ぎた時、2人目を妊娠しました。偶然にも、ママ友仲間と2人目を妊娠するタイミングが一緒になりました。つわりで体調がすぐれない中、交互に子守りをしたりお互いに支え合って過ごしていました。

2人目を妊娠して5か月くらいの時、「自分の条件にあった職場があればいいな」くらいの軽い気持ちで看護師の就職フェアに参加しました。すると、とある病院から「働いてみないか」と声をかけられました。妊娠している事実を素直に話すと「妊娠していても大丈夫。1日でも働けるなら来てほしい」と言ってくれたんです。

正直驚きましたがとても嬉しかったです。妊娠中から育児の間は社会との関わりも減り、世間から分離されたような寂しさや孤独を感じていました。でも看護師として私を必要としてくれている人が居て、社会に求められていると感じられ、また以前のように復職したいなと強く思いました。

そこから長男を預ける保育園を探し、妊娠5カ月の妊婦さんとして週4日フルタイムで働きました。



社会と再び繋がれた瞬間ですね。重労働と言われている看護師さんのお仕事を、妊婦さんとして働くのは大変な苦労があったのではないでしょうか。

西山:私以外にも職場には他に3人妊婦さんがいて、みんな初産婦さんというのもあり色々気を使って働かれていました。逆に私は2人目の妊娠で、どれくらいまで動いても大丈夫なのか体感的に分かっていたので、職場の人達から「よく働く妊婦さんだね」なんて言われるくらい動き回り、産前休暇を機に退職しました。

妊婦としてお腹が大きくて大変だったという感情よりも、自分が社会から必要とされ求められる喜びが大きかったです。また、看護師として妊娠中に働く経験が積めたことは、体調の変化や大きなお腹で看護職をこなす大変さを語る上でも大きな財産になりました。

2人目以降は里帰り出産はせず、浦安市の病院で出産しました。予定日翌日に2人目として長女を出産しました。産後も大きな問題はなく自宅へ戻り、長女を含めた家族4人での生活がはじまりました。



約2歳差での子育ては大変でしたね。西山さんは3人お子さまをご出産されていますが、3人目はいかがでしたでしょうか

西山:長女を出産して約1年後に3人目を妊娠しました。妊娠中は大きな体調不良もなく自然分娩で3人目として次男を出産しました。しかし出産直後から、どうも上2人と様子が違うと感じましたが、その場にいた小児科の先生も、助産師さんも特に何も言わないんです。

母子同室の自室に戻って、次男と一緒に居ても、おっぱいを飲もうとしないところや、いびきをかくような呼吸にどうしても異変を感じ、もう一度小児科の先生へ診察してもらうように依頼しました。

すると次の日、先生から「もっと大きな小児科で見てもらわないとはっきりしないと思うから」と転院の助言をされました。そこで知人の新生児科医として有名な先生へ連絡を入れ、特別に診てもらうことになりました。浦安市から車で50分ほどのところにある大学病院へ、生まれて1日しか経っていない新生児と私と主人も一緒に救急車で搬送してもらいました。

大学病院で診てもらうとすぐに「これはヒルシュスプルング病という難病です」と言われ、私も主人も「やっぱりね、なんか違うと思ったんだ」と腑に落ちたような、ちょっと変かもしれませんが病名を告げられてすっきりした気持ちもありました。もちろん、この先どうなるんだろうという不安は大いにありました。上2人の兄妹が居て私達夫婦にちゃんと育てられるのだろうか、この先の生活はどのように変わっていくのだろうかと不安で胸が締め付けられました。

すぐに手術が必要という判断でしたが、その大学病院ではベットに空きがなく、さらに近くの大学病院へ向かいました。そこでも診察や検査をして「この子はすぐに手術をしないと死んでしまいます」と宣告され、翌日に手術をしました。時刻は夜中の3時になっていましたね。とてもとても長い一日になりました。



出産翌日に迎えた長いながい一日でしたね。次男くんの手術後について教えてください。

西山:次男に告げられた病名はヒルシュスプルング病(※2)といって、便を自分で排せつできない難病です。腸には便を出すためにぜんどう運動という機能がありますが、この病気ではぜんどう運動する腸の機能が無く、便が排せつされずにお腹に便が溜まってしまうのです。

次男はそのまま大学病院に残り、翌日に手術をしました。私は出産した病院へ戻りましたが、兄妹のこともあり早めに退院させてもらい、自宅へ戻りました。

次男の手術は無事に成功しましたが、そこから4ヵ月はNICU(※3)で経過観察が続きました。その間も父母に手助けを求め、自宅に来てもらい、兄妹達を見てもらっている間に私は次男へ母乳を届けるため車で往復するという日々が4ヵ月続きました。毎日があっと言う間で、産後の身体だからといって休むこともせず動き続けました。

次男は病気の影響もあり、合わせて口蓋裂(※4)と聴覚障害もありました。口蓋裂があったので口から食べたり飲んだりできず2歳までチューブで栄養を補給していました。NICUでの入院中、私もチューブでの補給方法やケアの仕方を看護師さんから学びました。看護師としての経験があるから大丈夫とか知識があるでしょって思われがちなんですが、実際自分事になると上手くいかないんです。

NICUの看護師さん達に「お母さんは看護師さんだからできるよね、大丈夫だよね」と言われるのですが、そのプレッシャーが辛くて苦しい思いもしました。不思議ですよね、看護師としての知識は持ち合わせているし実践しているのに、自分の子どもに何か起きた時、知識や経験よりも感情が先に湧いてきて、対応できなくなってしまうんです。



予期せぬ出来事が起こると、冷静に判断したり行動するのは難しくなりますよね。

4ヵ月の入院生活後、次男くんもご自宅へ戻られたのでしょうか。

西山:4ヵ月の入院後は無事に退院となり自宅で子ども3人、大人2人の5人家族での生活が始まりました。次男は退院しても体調を崩しやすく入院する時も度々あり、付き添いとして私も一緒に病院で寝泊まりしていました。また耳が聞こえないので療育(※5)にも通い、その都度に実家の母に来てもらい兄妹の子守りをお願いし、私と次男が療育センターへ通うという日々を過ごしていました。

私自身は今やらなければならない目の前の問題をこなしていくのに精一杯の日々でしたが、上の兄妹には寂しい想いをさせてしまったかなと思っています。次男が生れた時も、家族みんなで病院へ面会に行ってもガラス越しでしか会えないし、入院や療育に行くとなると私も付き添っていたから、兄妹と一緒にたくさん遊んであげれなかったなと思っていて。

その時から、なるべく家族で一緒に過ごせる時間を大切にしようと思っています。もう子ども達も大きくなりましたが、短くても一緒に過ごせる時間は楽しく過ごしたいなと心がけています。



限られた時間でも楽しく過ごそうと思う気持ち、大切ですね。西山さんは周囲の親御さんに感じる思いはありますか。

西山:障がいのあるお子さんをみている親御さん達に対して、これは私の勝手なイメージですが、自分を責めたり、自分のせいで子どもに障がいがあるのだとか思われる方も多いのかなと思うんです。でも私は全然そんな風に思っていなくて、障がいがあっても「そういう子もいるよね」というひとつの個性のように捉えているから、療育が必要な子どもがいる事実に対してそんなにマイナスには感じていないです。

だからその当時を振り返ってみても、すごく辛かったとか大変だったとか何かで悩んで苦しかったという感情よりも、日々やらなければいけないことに対して必死に対応していたなというくらいに思っていますね。




第2部終了

■続きの第3部はコチラ

https://mizani.jp/%e3%80%90%e7%ac%ac3%e9%83%a8%e3%80%91%e3%81%93%e3%82%8c%e3%81%8b%e3%82%89/

■第1部「孤独を感じた妊娠期」はコチラ→https://mizani.jp/%e3%80%90%e7%ac%ac1%e9%83%a8%e3%80%91%e7%94%a3%e5%89%8d/



※1母親学級:妊娠、出産、育児を経験する上で必要な知識を専門スタッフから学ぶ場。主に自治体や病院、民間企業などが主催し内容や回数などそれぞれで異なる。(ステムセル研究所HPより)

※2ヒルシュスプルング病:消化管のぜんどうの役割を果たすために必要な神経細胞が、肛門から連続して欠如するために、その範囲の消化管の運動がおこらず、腸閉塞をきたす病気。(難病情報センターHPより)

※3 NICU:Neonatal Intensive Care Unitの略で、新生児集中治療室のこと。早く産まれた赤ちゃん、小さく産まれた赤ちゃん、呼吸の助けが必要な赤ちゃん、心臓などに病気がある赤ちゃんたちが治療を受けたり、元気に大きく育つための部屋。(SmallBabyサイトより。運営:アストラゼネカ株式会社)

※4 口蓋裂:生まれつき上顎(うわあご)に裂け目が生じた病気。(東京歯科大学 千葉歯科医療センターHPより)

※5 療育:(発達支援)障がいのある子どもが自立した生活を送れるようにするための支援。(ほいくらしサイトより。運営:マイナビ保育士)



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【ご紹介】

西山さんが代表、企画運営を務める

■医療現場で使用される商品開発と看護師さんの支援事業をおこなっている「マインヘルスケア株式会社」:https://minehealthcare.co.jp/


■ナースライフがもっと自由に面白くなるコミュニティサロン「ナースライフバランス研究所」:

https://nurselab.net/home



インタビュー/ライティング:森山 千絵