産前産後のお母さんやそのご家族へ、出産に関する体験談をお伺いするインタビュー企画。これからお母さんになる方やそのご家族には、不安・悩みも多いと思います。子育ては十人十色ですが、誰かの経験を知ることで選択肢が少しでも増え、悩みの緩和に繋がると思い、先輩たちの実体験をお届けします。


21回目としてお話を伺ったのは中本 裕己(なかもと ひろみ)さんです。


記者・編集者として長年に渡りご活躍されてきた中本さん、還暦を迎えた現在も編集者として記事やコラムを執筆され、情報を届けていらっしゃいます。またプライベートでは56歳で初めて父親に。高齢出産となった分娩では奥様が生死をさまよう事態に。パートナー・父親、また記者として体験談と当時の想いについて著書を元にお話しを伺いました。


第1部は妊娠から出産までです。

結婚9年目の56歳のある日、奥様(当時44歳)から妊娠報告を受けます。順調に過ぎていった妊娠期でしたが、7か月目に奥様がおたふく風邪にかかってしまい、やがて生死をさまよう事態へと進行していきました。

※本記事は著書「56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました-生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記-」(ワニブックス)を元にお話しをお伺い、編集しております。


<プロフィール>
中本裕己さん(Hiromi Nakamoto)
東京生まれ、東京在住。関西大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。「夕刊フジ」で関西総局、芸能デスク、編集局次長、編集長など歴任。還暦を過ぎた現在も編集者として活躍中。自身の体験談をまとめた著書「56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました-生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記-」(ワニブックス)を出版。 プライベートでは一児の父。




第1部:産前

56歳での妊娠報告

生死をさまよう出産


葉っぱ


森山:妊娠までの経緯を教えていただけますか。

中本さん(以下敬称略):妻とは共通の映画を通じて出会い、結婚しました。
若いころから子宮筋腫があり、結婚する前から「私は子どもができにくい体質です」と聞いていたのもあり、2人で仲良く過ごしてきました。

それが結婚9年目の2020年2月、仕事中に妻から「帰ったら話がある」とメッセージが来たのです。「もしや離婚を切り出されるのか」と悪い想像ばかりが浮かびましたが、帰宅して話を聞いてみると、1枚の写真を渡され「妊娠した」と言うのです。

それはもう驚きました。不妊治療をしていたわけでもなく、このまま2人で過ごしていくのだろうと勝手に思っていましたし、まさかこの年になって子どもを授かるなんてと予想もしていませんでした。



森山:予想外の妊娠報告、奥様も44歳、中本さん56歳ですが、お二人の中で子どもをあきらめる選択肢はなかったのでしょうか。

中本:妻は僕に話してくれた時からその選択肢はなかったようです。

実は妻の子宮筋腫は年齢と共に大きくなりすぎていたため、3月に手術をして取り除く予定でした。しかし手術予定の1か月前、体調の異常を感じ子宮筋腫の影響かと思い婦人科を受診したところ、妊娠が分かったというのです。主治医にも年齢や体調を相談した結果「問題なく妊娠は継続できる」と言ってもらえたのもあり、私に話をしてくれました。

妊娠による変化を受けるのはどうしたって女性の方が大きいですから、そこは慎重に言葉を選びながら出産の意思を確認しました。妻は「絶対に産む」と言ってくれたので「それなら何があっても頑張って育てよう」と僕も前向きな考えしか浮かびませんでしたね。





森山:著書にも性別が分かった時のご様子などが書かれていますが、検診には一緒に行かれていたのですか。

中本:妻の体調もありましたし、長年記者をしてきた癖か様々な事に好奇心があり、なるべく一緒に行ける時には付き添いました。これから生まれてくる子どものためにも、人生のうちで出産に関われる機会は限られていますからね。


安定期も無事に過ぎた妊娠7カ月目、妻がおたふく風邪にかかりました。すぐに近くのクリニックに行き、妊娠中でも飲める薬を処方してもらい安静にしていましたが、みるみるうちに顔が腫れていき水も飲めない状態になってしまいました。

妻は「大丈夫、大丈夫」と言っていましたが、見るからに辛そうでした。後ろ髪をひかれる思いのまま、私は仕事へ出かけていったとある日、妻から「妊婦検診に行き診てもらったらそのまま入院になった」と連絡が来ました。体重は5キロ減、一時は血圧計で測定ができないほど血圧が低下、高齢出産というのもあり経過観察のためそのまま入院になりました。

妻からの連絡で入院道具をそろえながら、とても後悔しました。私がもっと早く病院への受診を進めていれば、こんな事態にまでならなかっただろうなと。

ちょうどコロナが日本でも流行り始めた時期だったのもあり、面会はできずメールでやり取りする他ありませんでした。



森山:コロナで病院も厳重体制になっていた時期ですね。その後、どのように進んでいったのでしょうか。

中本:入院して10日目の朝、いつものように妻からメールが来ましたが「お医者さんから話があるから来て欲しい」と嫌な予感がしました。夕方過ぎに職場を出た直後、妻からは「何時くらいに来られる?」「いまどこ?」など緊迫した様子。

急いで病院に到着すると妻は担架に乗せられ緊急搬送の準備が進んでいました。医師の説明では「ムンプスウィルス(※1)がきっかけで心筋炎(※2)となり、劇症化の可能性があり母子ともに危険な状態。一刻も早く帝王切開をする必要があるため、対応できる病院へ搬送する」との事でした。

予定日より2カ月もはやい時期でしたが、すぐに救急車に乗り込み、搬送先の病院に行きました。


妻は息も絶え絶えするほど辛そうな状態でしたが、意識はしっかりしていました。緊急治療室に通され、手術の準備をてきぱきと行う医師たち。病院に来て2時間後、手術が始まることになりました。

妻は息をするのも苦しそうな中、酸素マスク越しに何かを伝えたそうでした。「こんな時はどんな言葉をかければいいのだろう。もしかしたら最後の言葉になるかもしれないのに」と思いながら、妻の声に耳を傾けると「今日産まれてきたら七夕だね」と前向きな言葉を言ってくれたのです。もう胸がいっぱいで「頑張ってきて、大丈夫、大丈夫」という言葉が精いっぱいで、笑顔を作って見送りました。





森山:最後の会話になるかもしれない奥様の一言、やさしさを感じます。

中本:これは後から妻に聞いた話ですが、もし私だけ仮にいなくなってしまっても、子どもが自分の生まれてきた日を悲しい思い出として捉えて欲しくないと思って話したと言っています。生まれてくる日は誰にとっても一番いい日であり祝福されるべき日だからと。


そこから2時間くらいでしょうか、夜中の静かな待合室で1人椅子に座って待ちました。何とも長い時間に感じましたね。

深夜1時過ぎ、看護師さんから子どもが無事に生まれたと報告を受けました。始めは仮死状態でしたが小さい声で「むにゃむにゃ」と声を出し、今はNICU(新生児集中治療室)にいるとの報告でした。1,200グラム程の小さな息子が産まれてきてくれた瞬間でした。


一方、妻は命はつないだものの昏睡状態でいつ目が覚めるかも分からない予断の許さない状態が続いていました。


息子の誕生を喜ばしく感じながらも妻の容態が気になり、複雑な気分でしたね。




第1部終了


※1ムンプスウィルス
ウィルスの一種、流行性耳下腺炎とも呼ばれ一般的には「おたふく風邪」として知られている。
(東京都感染症情報センターより)

※2心筋炎
心臓の筋肉に炎症が起きた状態のこと
 (メディカルノートより)


■第2部「奇跡へと導いた面会」はコチラから




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【ご紹介】

■中本さんの著書:「56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました-生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記-」(ワニブックス) 

■産経新聞と産経ニュース(sankei.com)で、月に1回エッセー「息子は4歳 還暦パパの異次元子育て」を連載中。



インタビュー/ライティング:森山 千絵